魔法の世紀考察 (中編)
序説
(株)研数書院
絶対造形美術
中谷健次、橋本興家
倉田三郎、竹田信夫 共著より
p270
縄文式文化(日本旧石器時代)から弥生式文化(金石併用時代)
縄文式文化は貝塚や古代の居住跡などからは土器や土偶や石製の鏃(やじり)、錐(すき)、斧、剣、皿や骨や角製のやじり、銛鈞針、頸飾(首飾り)りなど、新石器時代の遺物と思われるものが発見された
土器は土質が脆く、色は黒い、皿、鉢、壺、香炉などの形があるが、曲線や直線の縄に似た模様が陽刻や陰刻によってレリーフ式にあらわれているので、これを縄文式土器という、
住居は洞窟や、平地式、堅穴式などがあり、敷石にて湿気対策も行われていた。
弥生式文化(金石併用時代)
この頃農業が行われるようになり、「金属」の「道具」も自然と大陸から伝わってきた、貝塚から素焼きの小壺が発掘され、と同時に壺や皿やお碗などが日本各地で発見されこれらを弥生式土器と呼ぶようになった。
焼きが固く、作りも薄手で、同じ形のものが大量生産されたものと思われる。
それは「ろくろ職人」の仕事でろくろが大量生産を可能とし、色なども赤や褐色のものが多く、デザインはシンプルなものであり、その他様々な金属製の「銅器」製品が多々作られた。
農業の発達と共に、居住も高床式等の階段作りの建築が見受けられます。
これは生活様式的な機能性と、象徴的建築文化への始まりと思われます。
さて、この魔法の世紀という本の序説としていきなり縄文や弥生式の様式の違いを引用させていただいたのですが要するに、その時代において材料(マテリアル)の違いと生活様式はリンクしていて、そこにその時代の現代というコンテクストがあると思われるのです。
次いで生活様式が変わる事、又は材料(マテリアル)として大陸から農業や金属が入って来る事によりその時代の現代性は、その材料((マテリアル))の変化により文化様式に大きな変化をもたらす。 この二つを挙げたのはより、違いがハッキリとしている事と、時代の進化というパラダイムがありかつ
機能的造形美(弥生式)と独自の造形の機能性(縄文式)という区別がしやすいかなと
すなわち、マテリアルの変化、それは自然付与的なものであり、それは開かれており、かつそのメディアは機能性とアート性を兼ね備え
生活様式にパラダイムシフトを興す
という観点から、落合陽一さんの魔法の世紀のメディアアートというコンピューターによる魔法の世紀及びアートという世界観について
マテリアルの変化によるメディアの進化は上記の延長線上にありその視点から改めて
魔法の世紀とは何か?を考察していきたいと思います。
第1章
「科学による証明、脱魔術化と魔術の再構築」
鑑賞という立場からの科学 芸術というメディアが持つ文化様式のみが表象を許されている魔法に対して、機械という様式をもってアートを再定義するメディアアートというコンピューター断層撮影装置というメディウムにより
再構築する事により芸術という魔法をメディアアートを通して表象文化的に表現できるという意味での魔術の再定義の考察。
Apple iPhone 2008
インターフェース 界面 接続
ライブラリー 図書館
「人の認識の解像度」 レプトンフェルミの境界 伝達の種類と世代
情報の染み出しについて。
この場合想定し得るのは目の構造(細かい事は省略します、又、光と電子の二重スリット実験もググってみてください)にあるように
前提において「象徴的機械」からの脱却であるからして物体として認識し得るディスプレイやデバイスというモデルへの挑戦であるのですが
やはり目の構造、これは「見る(認識する)」
を電子情報として脳神経へ伝達している
つまり見る事が認識の基盤であるのに対して
情報は情報化されて認識している。
つまり 目は構造的に調整している
は、表面的な構造であり、ディープな作用はまた別にあるこれは二重スリットからも
認識の基盤であるの視覚の自存的な存在論であるとされる。
よって情報は、調整という表象を持つ
つまりこの「象徴的機械」からの脱却は
情報を迂回して直接脳神経に伝達するという事を述べていると思われます。
ディスプレイとはコンピュータ媒体のコンテクストやコンテンツだけにフォーカスを向けているのでは無く
それを受け取る人の「象徴的機械的な視覚の作用」
も含めてそれらを総合的にディスプレイと位置づけていると解する事が出来ます。
この境目はとても難儀な問題であるとされます
存在の認識論をコンピューターで現象論化し
存在及び実存論へ転換させるって事なので
到底理解出来ないと思われてしまいます。
ディスプレイは比喩であると思われます
本質は受け取る側のディスプレイへの干渉であるので、、うーむ難しい 内容では無くね
内容は凄く分かりやすく説明されています
しかし本心は述べていないと思われますね。
その部分は難解極まり無い ただのプロジェクターでは無い事だけは考え過ぎかも知れませんが、そうとしか思えないんですよね、、
ですから難解なんです、いや絶望感ですねこれは 若い子には無いと思いますが
もし実現しているとしたら絶望感から始まるって言うのが素直な感想ですね。
考えすぎかもですが。シンプルに割り切れ無い部分は絶望を感じざるを得ないと述べておきます。
第二章
「コンピューターの歴史及び メディアの進化による映像の20世紀と21世紀のメディア自体の在り方の違いと、メディアが与える生活様式及びコンピューターが与えるマテリアルとその限界による、デジタルの歴史的対比による進化率の停滞と、シンギュラリティ」
文脈のアートをやめたのではなく、感覚で捉えてそれがアーティストならば結果文脈は自然に従って生み出される。
それが作品であるか?アートをする、のか?諸行無常的に捉えうるならばプロセスであり、完全はないよって文脈はこの場合技術的なテクスト(ある技術は前提)により感覚的なテクストが総合的に文脈として表出する。
それが真偽か?などには意味は無く表出する以上作品はテクストを体感的な知覚へと転換する
それが(感動する、心を動かす機械)
この場合において、人のように捉えて機械を固定化された象徴的機械論において、人の道具性という観点、これは実践的機械としては道具性から切り離せないであるし、それが象徴的機械化という枠組みを作り上げてしまっている
よってこの文脈をやめる事により
「象徴的機械論」ではなく「実像的現象論」
として、文脈を意識せず機械そのものの
アート性を引き出し産み出す為には、機械そのものを現存在的に据え置き、これ以上はアーティストの感覚論なので題名から
知覚的な機械そのものの脈々とした生の再定義であるとされ、蓋然性のある可能的作品
(作ってるので必然的実践家故に)であるとされる
第三章
「パラダイムが社会に与える生活様式の
変化とコンテンツ化したコンテクストが普遍的文化論として日常に溶け込む事による、構造的な問題点と、「メディア」
私的考察込みで、メディアを受け取る側もまたメディアであり、メディアを研究する言葉人間、つまり普遍的自然を中心としたコンテクストにおいて、メディアを研究する事
道具性から脱する為のメディアとして
「表象機械化」普遍化された機械文化論の再構築と解体的手法による仕方による脱魔術化」
64 人間はコンピューターの下位の存在になってしまう。
私的には人間は何かしらにしても既にインターフェースを行なっていると思われます。
バイオリンなら弓で音を出す ピアノは鍵盤で弦を叩く パイプオルガンは 管楽器へ
と解するならば インターフェースと共に生きているとするならばそこは超える超えないというよりは、在り方が変わっていく ここに研究による表現へと繋がるようなものと思われるのです。
すなわち、ここで自論ですが上記から改めて見ると日常とはメディアで常に様々なものとインターフェースを行なってきた。つまり存在とは媒体そのものである。 と言ってしまいますが実存論からも、存在定義の虚無性は考察されてきたのはこの曖昧な存在定義についてなので
、実は量子論も加えたいのですが、あまりにもアレなのでここは、存在そのもののメディア性についてだけ考察させていただきます。
第四章
世界というメディアにおいて、空間を意識する事は作品という流動性のある存在の虚構性を読み解き、時間概念という公共性の高い体系化のうちにある、実時間と虚時間及び無境界仮説という覆われている、存在と時間を再考察しかつ物作りと事作りの合間に鑑賞という曖昧な実存論としての対象に対して作品を展示するというメディアアートと人の無境界性の再定義と再考察。
まずは
p68 メディアアートの歴史
キネストスコープ 1891 エジソン
シマネトグラフ 1895リュミエール
指方向生マテリアルライティングシステム
(音と映像、音の映像化、音のカーテン への光のカーテン)
マスメディア 「映像技術と配信技術があれば、誰かの面白いおしゃべりや動きを撮りたいと思うし、それを遠くにいる人に伝えたくなるマスメディアの誕生です」
70
メディアアートの父 ナム、ジェン、パイク
メディアとアート
ダニエルロジン wooden mirror nin
藤幡正樹
「電子技術をメディアとした表現である」
「新しいメディアを作ることである」
静電気とは?。 手元道具性、メディアとは常に変化しながらも移動し、それが手元に届くわけでございます。存在は移動という仕方において現象学的還元しているので、必然的にメディアはそこに在る仕方でアート、エンタメ性を持ち、能動的、受動的、間主観的可分と細分化結合及び移動し続けているので、現実こそメディアアートであると解します。
75
「もし記憶メディアがこの世界に存在しなかったとしたらどうやって映像を作り出すのだろう?」
「今このリアルでの場所に加えて、メディア上でも同時多発的に流れている複数の時間軸」
固有時間軸と共通時間と公共性という観点から、歴史性と同じくメディアを通して私は実時間の内に共通存在を共感する事になるが、その間には虚時間がありその実時間と虚時間の間にある無境界仮説とはまさにこの、相互の固有時間の実時間領域での共有とまた、メディアによるが相互反作用の法則つまり、
共感という仕方で公共性を実時間領域で受け取るがそれは虚時間的な無境界仮説という公共性、相互存在性を内包しているので
存在と時間は、存在も時間、時間のうちに固有時間の存在があるという仕方で時空間を存在定義に組み込む事により不確定性原理というコンテンツをコンテクストする。
つまり虚時間と実時間、又無境界仮説は説明を完璧には出来ない訳でも無いけど抽象的解釈があるので 「何故文脈アートを作るのをやめたのか?」
これは上記から他ブログにも書きましたが
やはり手元道具性という、在る仕方の違い在る所からの移動という流動的不自由性、及びそれが理解し得ない領域にある以上、感覚知覚のメディアアートとして結果的にテクストが現れるという仕方において自由的な流動性を持つ。
メディアに関しては、様々ある故に
不動性かつ流動性 このテクスト定義はアーティストの感性に依るところとなるが。
ここは機械の象徴的機械からの脱却という視点から手元道具性から眼前共通存在により
メディアアートという、個人的にこれも少々象徴的な感覚がありますが、言葉が見つからないので据え置きます。
p11
内部のテクノロジーの仕組みを理解しなくてもコンピューターは使えてしまう
「現代社会の仕組み」
脳と神経 思考と自律神経
p12「再魔術化」
テクノロジー自体の秘匿性かつコンピューター化されたメディアが与える経験からの概念が構築するphysisはコンピューターが生じた事自体においてテクノロジー自体physisである
でなければ存在しないと私は思う。よって
15
により実在論は再考される。
魔法の世紀は映像の世紀においてイメージの中で起こっていた出来事が、物質の世界へ踏み出して行く時代なのです。
「映像の中だけだったものが現実へ」
つまり 質量の物質化及び、ボース伝達がなんであるか? 現象論的実在論
virtual「実質上の」
現実とは何か? p16
「拡張現実AR」 ヒッグス量子
パラダイム 量子の世代について
「逃れられない一様の現実」という視点から自由にするには、コンピューターの歴史というコンテクストを読み解く事が必要だと考えました。
考察
一様としか認識出来ない人の限界性(カント)
限界を認め無い=その手段は人の限界を超えています。不自由と限界の内にある自由性の可能的な蓋然性をコンピュータを通して蓋然性の可能性の視点を拡張現実として、その仕方において実践的必然性としてのテクノロジーが与える多様体を有する現実とvirtual「実質上の」コンテクストの可能性
17「研究とアート」の説明の難題について
スケールファクター、モデル宇宙のアート的様相つまり宇宙が美しいと感じる事そのものがロジカル的である。そこに見いだせる法則性を美しいと感じる事が可能なれば、ロジカル的な事自体はアートでありそれは、単純なプラグマティズムからの解放であるとされる。よって研究によりアートをアーキテクチャするとは
宇宙のみならず自然観が自ずからデザインする事と同義であるとともにある自由性を開示付与されているその意味で、理由や利害関係では無い ただ美しいと思うのです。
20世紀 映像の世紀
21世紀 魔法の世紀
魔法が映し出す映像による表出される秘匿性がAIを通して、現実とイデア「コンピュータと自然」を同期させ 世という概念を実像として世をユートピアそのものにする。世に生きる人としての絶望は世界を希望として再構築する。
表裏一体の世紀 「第4の世代」これは個人的に確信しております。 量子領域のかじり程度ですが 発見か?再発見か?に分かれますが。
第五章
作家論と作品への感想と考察
20 魔法 Science fiction
「原理的な機序、どういう理屈でその奇跡がなされるのか、切り離されて描かれています」
21
「無意識性(唯一の虚構性)」
ユーザーインターフェース 計算機の無意識性
「カームテクノロジー」
「ユキビタスコンピューティング」
p30 パーソナルコンピューターを介さずに
誰もがコンピューターに触れているという、その起点が携帯型コンピューター全般で
故に、デジタルの発展はコンピューターを理解しなくても使うことが出来るという意味で
p21
p60
「なぜ僕は文脈のアートをやめたのか?」
上部 と別メモ
p75 アートがテクノロジーと融合する
コンテンポラリー 現代的な。
76 八谷 和彦し
「メディアアートはとけた」
考察
現代的とは何であるか?と考えた場合それがどのような手法やマテリアルの変化で時代を変えてきたとしても、どの時代の作品も現代的である。常に現代 今この時に、又は同時多発的にアートは更新され続けている。よって何故メディアなのか?とした場合写真は、メディアを写真を通してvirtualに再現している。つまり写真を撮るメディア、撮られるメディア、そして現像するというメディア さて、こう考えてみるとメディアの染み出しとは?へと回想する。
解像度とはその高さは一定を超えた場合には
現実的錯視を引き起こす。
コンピューター映像は現実に近づくことであるが、解像度を上げると視覚的錯視が生ずる
これは現実とは?という現象学的還元に問題にも通ずるメディアアートというテクストにおいて とけた とはとても不思議な表現である
まるで雪解けのような寒さを感じます。
だが、それがメディアアートの季節なのだと思うのですね。つまり
とけたとは、「表象的機械」というある一定のモデルの凍結が溶けたと解します
例えばもし氷を遠くまで氷のまま運ぶのには
そこにはプロセスというメディアが必要で
そのプロセスに限界が生まれた。
しかしコンテンポラリーなテクストは常に更新されはするが、進むと転回するのは
同じ流動でもその結果は堂々巡りとなる
現実とはその堂々巡りに角運動量を加えながら弧を描く事にてその曲率の起点となる場所に
パラダイムシフトが存ずると解します。
よって、循環は弁証法的なスケールファクターを持ちアップダウン的に美の象徴化を目指している。これはアートの側面であり、やはりアーティストによりけりなのでここはボトムアップの方に視点を移します
ボトムアップとは可能的蓋然性つまり類推と直感的に流れているとされます。
これは理解し得ないとされますが、(これは違うブログにて抽象と具象を簡潔にしたバージョンにて)
大分それましたが、つまり現代的とは手法的な発想、技術的な発想と共にメディアの開発と共にメディアアートの発明からの発想と解します。
印象派の時代にチューブが開発され画風だけで無く、光と影、この場合は太陽光月光と陰影
と解します。つまり描く以上に光そのものを観察、研究したと解します。
これはチューブだけで無くまさにメディアが変化した、つまりパラダイムが存ずると思うのですね。
光を通して、という見えないであろうphotonというメディアアートのメディアに該当する
目に見えないが目を通じて存在を現象学的還元に経験すると解します。
言い換えるとメディアアート及び「象徴機械的」体系化から脱する為のメディア開発から、アートを模索するという意味での
アートへの抽象機械的な可能的実践哲学的還元でもあるとされます。
ただテクスト定義に関しては
諸行無常の解釈とプロセスをどう捉えるかで全く変わっていきますので格率的体系化されたアートいや、芸術においては理解され難いを踏まえて昇華させるためにそこに転回的な不確定性原理が生まれ不確定性原理により再構築せねば
ベクトルを作る事が出来ないと思うので。
不確定性原理を地盤にしなければいけない理由とは?という命題に帰結します。
アート産業のメタ部分に関しては、ん?商売してるんですよね?とだけにとどめます。
純哲よりなんで、そこを見ると本質が見えなくなるので、観察にはあまり必要な情報じゃないので、のでアーティストにはなれないのかもですね。ともあれ
例えば、理解し難い作品や、有名な作品を見る場合は基本それ以外と初期の作品を見る事をオススメします。
そうすると意図したコンテクストの有無を探すようになると思われます。
あーここにこんな技術使われてるなぁとか、総合的に風刺だなぁとか それ以外の感覚知覚領域は 僕は 「あ、いる」
ぐらいで感覚的に見ています、は?と思われますがそれは仕方ないじゃん?としか言いようが無いですね。
空間演出も眺めていると空間を指差しながらこことこことか ここはこっち この延長戦上にぃ〜とキリがないので、話を戻して
メディアアートは溶けた ならば溶けたメディアアートをメディウムとして新しく開発するというメディアアートの意を知ることができると思われます。
第6章
従来のアートの歴史とコンピューターとアートの親和性、及びコンピュータ自体のデザインとアート性及び、メディア研究はメディウム研究と捉える場合その技術研究はアートを兼ねた科学技術であり、結果 生活様式への接点を
提供し続けている
第7章
アートの世界の基本的なルールとアートゲームという良し悪しはあれど、業界的権威と、アーティストのコンテクストへの著者の見解と
私的
ここはこの二つを纏めて考察致します
アート産業のメタ部分に関しては、ん?商売してるんですよね?とだけにとどめます。
純哲よりなんで、そこを見ると本質が見えなくなるので、観察にはあまり必要な情報じゃないので、のでアーティストにはなれないのかもですね。ともあれ
例えば、理解し難い作品や、有名な作品を見る場合は基本それ以外と初期の作品を見る事をオススメします。
そうすると意図したコンテクストの有無を探すようになると思われます。
あーここにこんな技術使われてるなぁとか、総合的に風刺だなぁとか それ以外の感覚知覚領域は 僕は 「あ、いる」
ぐらいで感覚的に見ています、は?と思われますがそれは仕方ないじゃん?としか言いようが無いですね。
空間演出も眺めていると空間を指差しながらこことこことか ここはこっち この延長戦上にぃ〜とキリがないので、話を戻して
メディアアートは溶けた ならば溶けたメディアアートをメディウムとして新しく開発するというメディアアートの意を知ることができると思われます。
p84
性能が上がると飽和が起きる
発明開発があるとシンギュラリティが起きる
とITのデメリットは簡潔に感想を述べます。
「原理のゲーム」としての芸術
p87
芸術 「従来のメディアは
カンパスや彫刻色と形を操作する事
だった」 (ピカソ)(カンディンスキー)
考察
平面であるカンパスに絵を描く事は平面にvirtualを作り出す事であった、それらは壁画の時代と変わらず、ここですっ飛びますが、、
イデアとは何か?わたしが理想郷として夢想するだけなのか?はたまたイデアがあり、世界が夢想なのか?それをロゴスとして様々なメディアを通して芸術は表現した。それはイデアという神格化され得る世界及びこの世界を映し出す。
つまり平面であるカンパスに描く事自体がその夢想的なイデアをカンパスに収め人という儚くもまたイデアである世界の苦しみとの矛盾への表象として、それはモチーフや主題に関わらず、上記の事から、神聖なものと日常
これらは自然哲学において ヴィヴァルディの聖愛と俗愛、唯心と唯物 この狭間である故に、平面にvirtualつまりリアリズムを描く事が可能であり、それは創造の行為であるとされる。
よってコンテクストを描く画家もいればコンテクストを通して構成的に支配する画家も存在した。 では彫刻とは?
彫刻も、型を削り取り形を形成する手法とメディウムをそのマテリアルの違いにより張り付け形成していく手法がある。
長らく脱線してますが、要するに
カンパスは平面にvirtualを描くそして彫刻は幾何学的な造形と共に、メディウムをそのマテリアルに準じて結合、分離を繰り返しながら形成する。ここで平面と立体という二つの次元構造が造形美として構築する、これこそメディアの自由と不自由な様式の体系化 も され得る
芸術の一様式であると思います。
さて、ここで落合氏はピカソとカンディンスキーの2人の芸術家にフォーカスを当てていますが
先にカンディンスキー氏から入りますが、初めて画集を見た時(あまり見たくないけど)
線と色と配置、それは構成と、コンテクストの極限値を画面に配置している。
私が線を描く時常に、あーこっちだ、間違ったぁ線足さねばっていう説明し難いのだがその取捨選択が構成という事なのかぁと改めて製図を学んだら理解の範疇にやってきた。
さて、ピカソ氏かぁ、、キュビズムは立体構成だがピカソ氏は言葉で魔法を仕掛ける天才であり、カンディンスキーと同じように構成を組み立てているが、より写実を意識してそれを、立体構成に組み替えている。もし単なるめちゃくちゃな構成ならダリ氏の「彼のやり方であって、、」という発言は出てこない筈である。
ダリは製図の鬼でかつ、科学的な研究を古典様式に沿って再構築している。よって形象と創造そして対象上記の次元構造に基づき自然の再構築であり、それは異質のようでイデアのくだりにあるように狭間の矛盾との対話とコンテクストの表出であり、自然の表象文化論的評決
それが芸術であった。
さて次元構造とメディアと現代美術の蓋然性からの偶発的必然性まで脱線しときました。
すなわち芸術はそもそも空間デザインであるという所からの戻ります( ´ ▽ ` )
第8章
「現代美術とメディアアート」
コンピューターとvirtualというメディア研究について
又、「表象機械文化論」の再定義による
機械文化論のシンギュラリティ
アートを通す事による、普遍文化論と普遍文化論が機械やコンピューターに与えるデメリットからの脱却としてのマテリアルとメディア研究
89
「心を動かす 技術」
「原理のゲーム」
「驚きが大きいもの」
「露骨な表現」
これらはB級の台頭と述べていますが
私的には、より人らしくある事の表現であると思います。上記のイデアはここを説明したかったのですが、理想郷はあれど理想郷には居れないこの矛盾は苦しみから怒りや享楽へと脱自的に虚無性へ落とされまいとするアーティストの表象であり、実存論という曖昧な存在定義や概念のメタファーとしてよりはっきりと作品に現れているのだと思います。
従ってややグノーシス主義的思想であるが
まさにこれがイデアの一様相と捉える事は出来ないだろうか?醜くも美しいという表裏一体であると私は思う。
光と共に闇はそこに初めからあり、それらは超越論的様式を持ちコンテンポラリーは
よりそのマテリアルに準じて結合しデザインしてきたとされる。
作家と鑑賞という内的視覚、無意識的知覚の部分を考察しておきました。
前フリ長かったですがそれではメディアアートは上記の延長上にあるという前提からメディアそのものを再考察していきたいと思います。
〜p96
ここまではCG技術や 映像の時代においての映像の世紀におけるコンピューターとリアリズムの対比構造と進化特に同じコンテンツの中においてのコンテクストの変化と時代性についての解説が書かれています。
魔法とは? からのメディアアートのメディアについて、映像が現象に染み出してくるという事、それがディズニーの演出を通して
「空間をメディアとして映像化した時に、水平化された実存論的メディアが現象論として文化還元的に現実に感動を与える、その感動は本来性の本質を突き動かす」
表現は手法に縛られる事なく、表現する側の想いの強さが根源的感覚へ届くのかに重要性があり、メディアアートは手法だけで無く技術的にも研究が行われています。感動を届けるという事には私的にはそれがどのような?〜
という表象的体系化コンテクストを通して断定した解釈を付随することはありません。
私はアナログ人間ですが、多少の違和感が無いとも言えませんが、コンテンツとメディアは別と捉えるべし、と解しますので多少の違和感もまたメディアアートの様式の一部であると思います。
第九章 「機械が与える現象学的還元による存在と実論への著者の見解と現象学的還元され続けている人を含めた自然進化論が与えるある種の絶望感からの脱却と、から始まる未来像。」
p98 「プラットフォーム共有圧への抵抗」
この章では都市と地方都市について
つまり「都市というコンテンツと都市のデザインにおける、全体批評性の喪失とインフラの基盤の単一化による都市コンテンツから失われた独自性への指摘とプラットフォームコンテンツの限界と構造的閉塞感について」
考察(余談込み)
私は半引きこもりですが、この都会でも田舎でも無い中途半端な地域に40年生きていますがたまに都会に行くと凄い!という感覚は無く、大体都会はこんなもんだ、又、違う都市も大体同じだなぁという感覚を覚えます。
たまに風任せで車を走らせて都会をドライブすると変わらない景色がずっと続く訳です
都会そのもののクオリティという問題では無く上記のインフラのプラットフォームコンテンツ都市の構造的閉塞感を感じる訳です。
「でっけぇ墓場だな、、」
言い過ぎましたが、けれども機能的、合理的区画整理なんだなぁと思いますとプラットフォームを抜けるとコンテンツは存在を失うと指摘されています。
ところで都市同士のコンテンツ産業についての章ですが
私の私的な意見なんですが、先日つくば市の筑波山に行ったのですが、途中はモデル都市でしたが 筑波山ですよ?あのコンテンツは脈々とした生命力を感じるのです、(抽象と具象のブログ参照)さて、車は右に曲がり左に曲がり何回も曲がる訳ですが、ん?上に道ないな?どうやって登ってんだ?どんな構造だこれ?と思ったらとんでも無い機能的構造を持ったコンテンツだなと、これも一つの都市だなとカーナビがシティモードに切り替わった時にふとカーナビに「やりおる」と感慨無量となってしまいました、これは超個人的な都市感覚ですが、
あながち間違いでも無いと思います。これも無意識的知覚の感覚的な感情への働きと、自然という構造への憧憬であると思われます。
便利な時代、道や公園、単なる路地やトンネルそこにコンテクストを感じる事は少ないかもしれないだがそこにはプラットフォームの共有圧は感じる事ないのですね、これは年齢的なものは関係ないと思います。
池をじっと眺めぼーとしながら、光の反射率と分光と池の色や波が光の質変えるなぁそこだけが切り取られた世界のような感覚
これは現象学的還元な「象徴機械化」の脱却と同じく、象徴的自然感覚のプラットフォームの認識閉塞感からの脱却のメディアであるとも解する事もでき得ると思います。
要するに、見てはいたが感覚が鈍かったんだなと気付いたのですね。
つまり現実こそメディアであるってのべましたが狂言でも無いと思います。このように世界を眺めると虚無と発見が絶望感と期待感というなんとも説明し難いコンテンツを発見する側の想いを知ることが出来る気がいたします。
魔法の世紀考察 (中編)
第10章
コンピューターが与える人間の拡張について、パラダイムシフトが与えてきた現象学的還元との類似性から推測する、拡張の多様な解釈と可能性への回帰
p84
性能が上がると飽和が起きる
発明開発があるとシンギュラリティが起きる
とITのデメリットは簡潔に感想を述べます。
「原理のゲーム」としての芸術
86 五感でアートを感じるという視点
p105
「新しいことをするために」
Apple
ダグラス.エンゲルバート アラン.ケイ スティーブ・ジョブズとする (人間の能力を拡張する「エンパワーメント」)
「パソコンの思想と」
「人工知能+プラットフォームの思想は」
似て非なるものなのです。
106 スティーブ・ジョブズ
「人にとっての自転車のようなものをめざした、早く走れたり遠くに行けるための道具」
1.能力の拡張
2.知的拡張
3.表現の自由
考察
Appleの思想とスティーブ・ジョブズのコンピューターの解釈は上記でありその意味では、冒頭に述べた様に、時代による生活様式はこの、1能力の拡張に準じて、縄文時代には獲物を獲るためには材料(マテリアル)を加工し、穴を掘るためには石材や木材を加工し道具を使っていた
と共に生活様式を形成した
弥生時代も金石併用時代、つまり鉄器が大陸より伝わり生活様式は一変したこの変化はパラダイムシフトであり道具性の変化から発生した時代拡張である。
先に3.表現の自由から入りたい。
では縄文や弥生の出土品について、人それぞれだが器なら別に丸かったりある程度深さがあったりすれば良い訳だがところが、
縄文には独自の抽象的装飾が施され、デザイン性以外はここでは省略しますが とても面白い形力強く武骨な造形が施されています。
また弥生時代では鉄器など縄文から比べるとより機能的に雑事省略されているのですが、時間短縮に比べ機能的にシンプルであるがそれに準じてシンプルな機能美を生かしたデザインが主となっています。
表現の自由から入ったのは、生活の道具が生活様式の利便性だけでなく、デザイン性を兼ねている、今よりはかなり時間が無かったと思われますが、その限られた時間の中でもデザインを産み出す表現の自由が見受けられます。
2.知的拡張
ここではカント先生の自然観念と経験についてですが「アポステリオリ」後天的、経験的なものを拝借致しますが、批判部分はさておき、
道具や生活様式が変わる事により経験的なものは後天的経験に準じて、知的経験を人にさせ得るのだが 経験する側に関しては「アプリオリ」先天的総合判断(直感的、感性的)が含まれこの体系化もここは省略致しますが
要するにこの三つの要素は歴史的人間の生活様式において 生活の一部としてインターフェースを相互作用として意識する事無く行ってきたのでは無いか?というのが私の意見であり、
ここで「コンピューターの思想」
「ai プラットフォームの思想」
の見解と、時代の変化と思想の類推性についての考察とします。少し面白いのが似て非なるものと著者の見解に対して上記にはプラットフォームの思想があり、以下略。
第11章
「メディアアートと象徴機械化の方法的な要素と共に映像の世紀が後世に残す、表現の多様性から紐解く人工知能パフォーマンスと人との関わり合いと、それが物質的また内面的この生活様式の変化というパラダイムシフトとシンギュラリティにあって心と身体の相補的な拡張による問いかけという知の原点回帰という仕方が人工知能的現象学的還元という在り方について」
110
エンゲルバート
「メディアアートは人間の表現を拡張するという観点で、最初に表出した計算機の文化的性質にすぎなかった」
コンピューターの歴史において「象徴的機械論」は、可能的な機械の開発に準じて、求められるのは研究の対象として必然的可能性の範囲に留まる限り、実用性にフォーカスが向いてしまうので、計算機としての性能が主となり、
メディアアートは人間の表現を拡張とし、文化的性質に過ぎなかった。
とあるが、計算機に文化性質を付随する事により、これまでの芸術家の逆
計算機にメディアアートとしての計算機の拡張により、計算機自体の視点から文化性質を持つ研究を兼ねた芸術により
計算機方面の拡張だけでなく文化芸術としての計算機の拡張による研究により
それまで日の目を見ない対象に対してメディアアートというメディウムを通して人間の表現や生活様式に染み出す事により
全く違うアプローチからの「抽象的機械化と蓋然性により科学と文化芸術の拡張とサポートとしての実用性を共有できるという可能性を持つ」
114 なぜイシュードリブンの時代なのか
20世紀は映像の世紀
に関しての落合陽一氏の指摘は
映像としての文脈アートは、風刺的な作品や奇抜な作品など、映像という受動態として
鑑賞者に提供する形でパフォーマンスしてきた。
それがアートプロジェクトとして「コミュニティ」「地域性」という仕方で表出している。
これは受動態としての映像のパフォーマンスを能動的公共性において体感的にアートを再構築するという仕方で行われている。
だが私が思うにメディアの位置の変化であり根本的には映像というコンテクストは同じであり、これはメディアアートにも同じ状況が続いてしまっている。
つまりコンテンツの充実は諸刃であり、流動性の高さが移動を早め、最終的にはコンピューターにおける「コミニティ」「地域性」を持ち結果プラットフォームを形成してしまう。
それ自体に問題は無いが、それが最終地域性を持ち同調圧力的な要素を持つ事と、
並びにそこで停滞してしまう事への危惧を
著書では指摘していると思います。
コンピューターを扱っている上でその環境の問題点をリアルタイムで経験しているので、現状維持を危険視していると見受けられます。
119 「やるか、死ぬか」
凄まじいですね、、
「自らがこれまでにない問題を作りだして、自ら解く」
122 コラム
人工知能は我々の世界の認識を変えるか?
人工知能と言えばシンギュラリティですが、よくよく考えたら人工知能に限らず、動植物や自然でさえもとっくに人知を超えてる訳ですが、
ともあれ
人工知能パフォーマンスとしては、情報の選択や様々な分野において今後多くの方面に活用?するのかされるのかは分かりませんが、
ただ、ググるだけでも膨大な情報が入りますね?動画でも様々な分野の動画があります
ではそれら全て網羅しそれが私生活に支障があるか?と言われたら、ヒッキーには便利ぐらいになります。要するに、
シンギュラリティが起きたら同時にパラダイムシフトが起き、それに従った生活様式に変わる
序説に述べたようにパラダイムシフトは度々ありましたし、それに従って生活様式は変わりましたが、全てが無くなってしまう訳ではありません。
暴論ですが 世界はメディアアートであると前述したようにパラダイムシフトと同時に人の拡張が起き 解決より問題の設定が道具となるという指摘であると解します。
よって上部
「自らが問題を作りだして人工知能に問題を設定し共に問題を解く」
というポジティブな解釈論で俯瞰するべきかなと? ややデジタルを使い出して
結局は設定の仕方(ツールをいかに有効に使うか?どう解決する方法を教えて貰うか?)
という私の立場から見るとそう捉えるのは
容易で、アナログな手法でもロジカルなアドバイスはデジタルからでも得られるという可能性も、一つの転機と結局設定の仕方の自由性は
個人に委ねられているという事であり。
しかし立場が違うと様々な問題や煩わしさや、閉塞状況を現場に感じるのかもしれません。
新しい表層/深層
デザインの重要性
「工学的知への回帰」
126
自然を機械的に扱う学問全般を
artes mechanicae
アルテス.メカニケー が英語に輸入され
mechanical Arts
メカニカルアート 対義語として
liberal arts リベラルアート
人間思想、精神学問を対象とする学問
日本の哲学者 西周は、
メカニカルアーツを「技術」と訳しました
リベラルアーツの古典的な意味の言葉は
「アルテス.リベラレス」
アルテス.リベラレスは内側 (唯心論)
アルテス.メカニケー 外側(唯物論)
技術(テクネ)
考察
二分に関しては、唯物論、唯心論と隔てて追記しましたが、事実テクネつまり技術という意味では、科学は唯物論でありつつも唯心論の技術を持ち合わせて、哲学宗教含め、唯心論は唯物論の要素を持ち合わせていると解します。
これは共に現象学的還元Artsと記述している上での指摘考察だと思います。
p130
デザインとエンジニアは本来の意味での技術の定義には関係がない
現代においては深く関係すると思われれますが、これは個人解決というより畑違いという側面もあるので、兼用出来る人は限られているので、その場合にも上記の人工知能パフォーマンスの可能性の一部と訳しました。
第4章
新しい表層/深層
第12章
「固定概念化されたデザインに対してscience technologyが有するmechanical (自然を機械的に扱う学問)Arts及びliberal arts(人間の思想.精神の学問)によるDesignを施す思考するという前提からDesignが開発するDesignの為のアートとしてのcontentsや総合的mechanical humanismのプラットフォームの再定義によるInter entertainmentの可能的生産モデル」
デザイン専門学校バウハウス。 Designの生産量を上げる事によるARTの定着化と多様性p133
カンディスキー
パウルクレー
ヨハネスイッテン
(johannes itten1888〜1967)スイスの芸術家、バウハウスで教職を務め、独自の色彩についての理論などを教えた
p132
モノと抽象的な意匠や外見を区別する事、其れ等の
デザインの理論化することで、誰でも習得が可能である事を示した
グラフィックデザイン(印刷時代に必要なデザイン学、デザインされたコンテンツを二つに分離する発想)
プロダクトデザイン(大量生産時代に必要なデザイン学、リスクマネジメントを兼ねた生産工程コストと、外見や機能の二つを分離する発想)
p136
「消費者は大量生産された安い既製品ではなく、自己表現や自己実現の手段としての(ブランド)」
1「実際の価値」
2「デザインによって高められた価値」
デザイナーとは技能と意匠の「信用」によって富を稼ぐ職業になったのです。
考察
さて、序説で縄文式と弥生式のデザイン性について述べましたが、再度この指摘に関して考察いたします。
まず弥生式デザインについてですが
(絶対造形美術参照)
弥生式デザインはシンプルなデザインが好まれこれは大量生産ではありますが、より機能的な意匠であり、土器の専門家が
「ろくろ」
という道具開発により大量生産を可能とし、この技術や理論化により土器製造の専門家が多く輩出されたと予想出来ます。またプロダクトデザイン、これは現代においてはコストやリスクマネジメント等が関わっていますが、当時においては、人口の増加に伴い技術発達(ろくろや焼入れなど)や専門家の輩出が始まったと予想出来ます。
次いで縄文式デザインについてですがの前に
確かに弥生式デザインの時代において土器製造の専門家が多く輩出されてはいますが、
では全てのデザインが統一されていたか?という疑問があります。そこで縄文式のデザインを再考してみますと、機能的な意匠と共に縄文式デザインの独特なデザインに関して思う所は、時代性により失われる事が無いと言う事です。
何故か?と申しますとこれは
「時代性についての史実化されない固有の歴史性においての生活様式の継承」
そこまで重く無くても、今の時代ほど各地域の生活の交流は簡単ではなく、弥生式デザインが流通しなかった地域もあると思う所があり、この場合には縄文式デザイン
あるいは弥生式デザインの型はあり縄文式デザインと重なる部分があったのでは無いだろうか?というデザインの変化と、
パラダイムシフトの重なり合いという意味のデザイン の 歴史性についてまず
縄文式と弥生式のデザインとその時代の技術と意匠について説明させていただきます。
次いで 魔法の世紀 の観点から、
デザインとバウハウスについて
グラフィックデザインとプロダクトデザインのバウハウスの(古典的、相互的デザイン学)
についての記述に関するDesignの在り方については、デザイン学であるドイツのバウハウス専門学校において、様々な技術と理論化が進み、著書にあるように(大量生産時代に必要なデザイン学)に関して考察されており、
このバウハウスからは上記にある芸術家が有する様々な個性的なデザイン
並びに抽象的なデザインでありつつも意匠と技能が高いので、そこにはブランドという「価値」が付随されていると述べられています。
要するに現代のIT技術による理論化されかつ技能的なデザイン、グラフィックデザインやプロダクトデザインは今や生活様式の一部として、新たなデザインやアートとして、アートが与える日常性により、より機能性だらけなんですからそこに technologyという視点からの可能的な技術開発という方向性を示唆していると解しました。
ところが、現代においてモダン建築やポストモダンといったデザインに対しての私的な考察ですが、引きこもりなので直接見た物は少ないですが、今は世界中の街並みを拝見する事が出来る時代(便利な時代ですなぁ)で、海外の街並みは何故あんな風に強そうなんだ?という個人的な意見があり、(場所にもよりますが)
それは古典時代から機能的なデザインというよりも、デザイン的に都市を構成かつ形成しているという感想があります。
要するに、グラフィックデザインとプロダクトデザインが見事に一致してグランドデザインを可能としてきたのだと思うのです。
引きこもりの風任せドライブの時に感じる街並みの単調さはこの違いなのかなぁ?と思いつつ 話を戻しますが、
こね理論化や技術、技能的なコンセプトや、プロジェクトは短期間で終わってしまうものですが、これらに機能性を付随しかつ日常性の一部としてデザイン性を付随する発想はないものだろうか?(きっとあるんですが)
より日常性に溶け込みかつ、それが現代においてどのように
「映像の世紀が産出したブランドというメディウムを魔法の世紀において、それをデザインするデザイナーによって技能と意匠という信用性を持つか?」
それに従って相互が総合的価値基準を拡張しながら従来の価値と新しい価値観において、
富は固いのでビジネスモデルを開拓していくのか?この章では、この違いと現代のデザインに関しての視点からの観点について述べられていると同時に学べる指摘であると思います。
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