ゲンロン通信 編集 東浩紀監修
ウラジミールロキンソン
高山明
濱野智史
安天
市川真人
井出 明
上田洋子
海猫沢めろん
河野到恩
小松理虎
速水健郎
ふるまいよしこ
まず、さらっと流し読みした上での考察であるので、細かい部分と対談者の名称等は割愛する事に関してはご容赦いただきたい。
初めにウラジミールロキンソン氏の文学と理想郷という部分からの政治背景とイデオロギーによる主義体系化についてから序盤は始まります。
文学は少なからずその政治的背景に伴い、その時事問題が題材となり、
そして文学というフィルターを通し世論に対し作家の思想を投げかける事により
問題提起を促す事も含めて作品に投影されてると解します
よってそれぞれの国により、主義体系化が違うという前提がまず一点
そしてその違いから自国の思想主義のコンテクストが垣間見える事が可能的であると
推測されます。ここには宗教観のバックボーンもある事は見過ごせ無いと共に、それらは体系化されて、しばしその本来性つまり本音、建前のメタ理論は
ここでは深く掘り下げる事は省かせていただきます。
ここでは文学の役割とある種のモデル社会、それは劇場的な様相を兼ねていると思います。
さて、ここから(何故か)
アイドルとオタクの話題にうつる訳ですが
アイドルとは本来(偶像)であり、アイドルオタクとは特殊な信者であり
元来の宗教信者とは違い、
アイドルと信者のパワーバランスが逆転するという事も踏まえて考察するならば
特殊な関係性にあると思います。
また、ある一定の場において偶像であるという事は、場(会場)は変わりますが
それは受動的な自己表現の場と共に
アイドルと信者は能動的な関係性にあり、いや、時代と共に信者は受動的な共通性から相互関係において能動的共通性を持つ事になり、それはメリット、デメリットがあれど、それが時代の変化の表象文化論
であるとされます。
その変化は文脈と解する事が可能で、それ故に文字媒体、ネットメディア論を介する事によりしばしば問題が浮き彫りになる事も同時に表出され
それは無規定的に評価、批評を受ける事になるが、その本来性には従来のアイドルモデル、つまりバックボーンの変わらない伝統文化的なマネジメントが介在している。
地下アイドルはその意味では個人事業者によるオーガナイズとプロモーションを構築企画する事により、新しいコンテンツ産業として、アイドルという仕方において地下アイドルをプロデュースしているのだが、新規産業であるが為の、削りあいの激化による疲弊も見受けられます。
を含め、文化人による思想体系によるプロデュースは前衛領域とも言えるのでは無いだろうか?
オタクやサブカル、ハイカルチャーは広義で捉える時代背景であるというのが私の考えなので、ここも省いてよろしいかと。
上記からも、思想、文化人、又言論の自由はポジティブなリベラルとして解するという事 も 可能であると解釈いたします。
さて話は変わり 観光 旅行 とそれらを応用したプロジェクトへと花は移ります
私はまごう事なき引きこもりなのでただ
半引きこもりなので、たまに出かけると
行き先は指定せずただ車を走らせるだけ
何処かに泊まる事も無く、目的も無くが前提ですが
では観光や旅行とは?と考える訳です。
確かに観光に行ってはいない
別に旅行しているわけではない
しかし結果両方しているという逆説現象が起きている訳です。
つまりその時々により旅行であり、観光であるのです。
つまり能動的というか多動的ですが、目的無く何かには辿り着き かつ 終着地点で無いという状態になります。この例は私の場合であり これを材料に観光と旅行を考えます。
すると必然的に 始動因のある旅行と目的のある観光が導出されます。
今度は逆に場、そのものつまり受動的かつ不動の建築や造形物 それが芸術的であれエンターテインメントであれそれは一つのマテリアルであるのです。
ただ始動因、目的因において、場の不動性に対して 能動的に向かうと思われるので、そのプロセスを加味するならば
能動的とは 諸行無常であり
場の不動性は 盛者必衰
とも呼べ その関係性は沙羅双樹の華の色
美があるわけです
ここはアーティストやクリエイターの感覚で大分変わる部分で 諸行無常を表現したいのか? 盛者必衰を眺めやるのか?
はたまた両方か??
この感覚論は相互に見方が変わると思われます。それはアーティストのプロジェクトのベクトル次第という訳であり。
旅行 観光 とは、不確定性を持つ相互作用であり逆もまた然りであると思われます。
これらはさらに深く考察されておりますので読んでご判断していただきたく思います。
上記からテーマパークや演劇(巨大な舞台装置というプラットフォーム)へと内容は移りますが 舞台装置そのものについては省かせていただきます。憧憬故にと言い訳しますが
テーマパークを、巨大なものとだけ捉えるのではなく演劇という仕方においても、ここでまた絶妙な距離、関係性、相互作用反作用の法則が立ち現れます。
全てを掌握したいのか?それとも変化や移り変わりを表現したいのか?
演劇のエンターテインメント性は多様性を持ちうる可能性について知る事が出来ます。
ではテーマパークとは? 大分長くなってしまいましたがここから後はこれから読みたいという方に委ねたいと思います。
あらすじ以外
濱野智史氏 対談
アイドルとは?への考察にあたり
上記でふれましたが少し掘り下げて、(対談)に触れておこうと思います。
コンテンツとしてのエンターテインメントの
一要素であるアイドル産業ですが
位置付けはサブカルであり、またメディアが作り上げたコンテンツであるという意味においては、そこに歴史性は生まれ
サブカルであるという前提は全く問題視する必要は無いと私は思います。
私自身アイドルを好きになった事は無いのですが、それ故にアイドルとは?そして
「産業として商品化される存在と商品化される神格性」
と題し考察してみたいと思います。
まずアイドルをプロデュースするのにはお金がかかるという前提において、
実在論として少女は普通の人で商品化を前提とした神格性
これは格律からかけ離れはいないか??
ところでカント先生は大学というパトロンがいた訳で西洋芸術や音楽家は海外ではパトロンありきでサロンが形成されている。つまり上級層が芸術に対してお金を出す文化的背景の歴史があります さてまた戻します
という事で格律から離れているとは言え無くなりましたね。
ハイカルチャーサブカルチャー関わらず
手法にフォーカスを当てるならば全く同じやり方であると思います。
それを善悪判断で見る人達は必ずいるもので
よっぽど私みたいな引きこもり野郎のアート好きの感覚論で考察しない限りは、眉を潜めるのもくだらん!と一喝する人もいるのは当たり前だと思われます。(上部カント先生にて(先生ですがここはあえてツッコミました))
ところで神格化とは?と考えた時に、日本独自の宗教観があると思われます。
そして違和感なく、御守り買ったり、お葬式だったり、クリスマスだったりと
言い方は悪いですが形骸化した宗教観であっても伝統的に受け継いでいかれ、そこに利益関係がある子には違和感は無いと思われます。
これはやはり日本独特の習慣性であると思われます。
大分逸れましたが
つまりアイドルをプロデュースするとは
その形骸化された神格像を実在論的に
普通の女の子に再構築するという意味合いにて
商品化つまりプロデュースする訳です。
オーガナイズがそこを意識するかはわかりませんが、普通はただの商品化だけに着目するのが合理的なマネジメントであるとされます
しかし題材に商品化、と存在
商品化と神格像
これを前提とした場合において上記の宗教観の考察を含めて、アイドルとは?
又、思想家が観るアイドル産業とは?
という視点からこの対談に対する私的な意見を述べさせていただきました。
僕のアイドルは哲学者か科学者か宗教観ですね
オタクにもなれないレベルですね
ここでついでに私的考察を加えておきます。
「オタク世代とサブカルとは?」
ここは簡潔に考察したいと思います。
つまりオタクとは、ある一定以上の知識を有しかつそれ故に狭義的なプラットフォームを持ち体系化すると思われます。
と対比し、その狭義的なプラットフォームを持ち得ずにアプリオリまで引っ張ってきたのがサブカルであると解釈しています。
つまりオタク文化をより身近なコンテンツとして普遍化した結果サブカルが生まれ、産業的に拡大していったのが現在のエンタメだと思われます。
だがしかし私は2000前の時代作品が好きなのでまたハマらない微妙な引きこもり野郎ですが
狭義的か広義的か?の違いであり、これは
「産業としてのマネジメント及びメディアプロデュースである」
なので、これの良し悪しは個々で判断するしかないのですが、、
良い事だけでも無いようですねぇ
大人の事情には立ち入らずただ そういう違いがあるという部分のみ考察しました。
演出家 高山明氏 対談
さて、上記では引きこもりの風任せの行動の旅行、観光性についてのべましたが
このプロジェクトに関しての考察をしたいと思います
「公共性が与える公共性という実像から風任せをコンテンツとして再定義するという事について」
私の風任せとは違い、コンテンツとして風任せをアートするというプロジェクトであるというのが初めに感じた感想です。
つまり風任せにある一定のプロセスを加えてプロデュースする事により偶発的なプラットを必然的な非日常にアクセスさせるという作品であると感じました。
風任せにも、ある一定のプロセスはあります
多動散歩もそのプロセスがあって風任せになるので、それを踏まえて
このプロジェクトを考察するならば上記で場の受動性、及び能動的プロセスとは
この公共性が与える公共性の実像であると私の中で解釈致しました。
ハイデガー 哲学を参照にしたいですが
ここは 足の裏から公共性は地繋がりに世界を舞台として眺めやる と述べたハイデガー 先生の言葉だけ置いておきます。
ここから観光と、旅行の存在論的な非日常と非日常が与える日常性による公共性をアートするという感想をもってこの対談への考察を加えておきます。
では引きこもり野郎の締めの考察に移ります
「テーマパーク化する地球と小野小町」
花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに
は?と思われるかと思いますが
祇園精舎の〜
だと少し重々しいのでテーマパークとは?
に関しての考察をしたいです思います。
やはり始めに述べたように場の受動性による不動のコンテンツ、これをテーマパークと私は解します。諸行無常の世界にあり、盛者必衰の理かのような非日常空間でありそれは不動の芸術であると思われます。
そこが消えて無くなる訳でもないので(予測は出来ませんが)テーマパークは繰り返しと不動かつ受動性である一定以上の歴史性を持つとされます。盛者必衰は重々しいので、小野小町の一句のが良いかなと
繰り返しの非日常はあり続けながらも、実在論的にではなく、色あせて消えていくものであるとわたくしは思うのです 何故か?
日常が「繰り返されている」という事は諸行無常に生きる者からしたら、その楽しさは繰り返されていくがつど失わされるという事です。
つまり感覚論になりますが、不動の場において私達が非日常であり、それ故にその場において諸行無常的な日常を過ごすという非日常的常識から解き放たれる事によりテーマパークは繰り返しの非日常空間を実在論的に日常として体系化している、色あせてるのは私たちでは無いのか?
と思いますが、テーマパークとは
日常の繰り返しによりつど現れそして消えゆくという意味で色あせてゆく
それはテーマパークの不動の場という儚い存在論で考察するならば上記にあるように
それは古くても新しくても、色あせその色あせた時間に何を想うのか?という独自解釈ですが、諸行無常において不動という状態性が持ち得る世界の特殊な儚さを感じるのですね。
それは実在論的解釈は有し得ず 場の状態性の自存解釈というフィルターを通してテーマパークを小野小町の一句に、いや最早小野小町でも良いとさえ思ってしまいます。
夢や舞台を与える側の自存的な非日常の繰り返しテーマパークという存在が我を何と思うのか?と想像すると、そこには
「煌びやかに見える事こそ、その内に色あせゆく心の移り変わりと思い耽り時の流れを眺めやる」という私なりのテーマパークへの憧憬です。
これは形骸化したテーマパークという意味でなく場の受動的な不動性という内的実在論的解釈と受け取って頂きたく存じ上げます。
まだまだあるのですが、
テーマパーク ここにて道半ばという意味も込めて下部 小野小町の絵を眺めながらテーマパークをイメージしてみてはいかがでしょうか?
ここまで読んでくださったのならば感謝致します。このようなスタイルで書籍考察や様々なジャンル考察をブログにて公開していきます故にご愛読していただきたいです。
ありがとうございました!。からの続き
p74
ダークツーリズム入門
対談 井出明
ここでは西表島へツーリズムと(今現在)の西表島の息吹を感じてみたいと思います。
ところで、私が今回参考書として二人の著者の著書を注文した経緯について言及させて頂きたいと思います。
まず 魔法の世紀 著者 落合陽一さん
また ゲンロン 編集者 東 浩紀さん
まだ全ては読んではいませんが、私の感覚的には両極に感じますが、それなのに何故か共通する部分を感じざるを得ないのですね。
科学と哲学 唯物論と唯心論
コンピューターと人と自然と宇宙
「ここは誰?私は何処?」
これは私的感覚ですが理系も文系もその専攻によりますが、ある一定の領域を越えてしまうと、
今まで見えなかった巨大な壁が突如眼前に現れ気付けば足元がぬかるみ、そのぬかるみに飲み込まれるような恐怖、周りを見渡せば渦のように人が蠢いて平然としている
「私は何処にいて、この蠢いていて封鎖された世界にいるわたしとはなんだ?」
という一種の絶望感と虚無感が現れてくる。
参考書を乱雑に読み漁り、分かったのは部分的思惟や研究を少々理解出来ても理解している私を理解する事とは本来出来ないものなのだ
ではこの世界で生きるという事は二つ
此処を探し
わたしを見つける
これは自分探しとかの、自己啓発的なのとは少し違い
「自然が与える人間性及び歴史的なコンテクストが残した抽象的な人の存在定義を規定せねばならないという事」
であり、落合陽一さんはその絶望感と虚無感をコンピューターからのアプローチにより世界という現象学的還元を指摘し再構築いや構築し再現するという仕方とするならば、脱構築とプラグマティズムと解する事が読み解けます。
またゲンロン 東 浩紀さんのアプローチは歴史的コンテクスト、これは歴史解釈にもなりますが、史実化され得ない固有の歴史も歴史性の内にあり、体系化された史実とは違うこの固有の歴史性の流動が残した今尚、息吹を感じる事が出来うるという、体系化された史実以外にもある様々な痕跡から世界を再構築して思惟するというアプローチにおいて、解体と弁証法と解する事が読み解けます。
この絶望感と虚無感の入り混じる世界の再認識のアプローチとして、コンピューターという距離感を感じさせ無いというシミレーションspaceという領域と
観光や場、又は環境やコンテンツから世界と人の存在を再定義するthinking space
という世界観の共通する部分があると感じた為ですね。まさに聖愛と俗愛という美的感覚のフォーカスの違いだけで、自己規定の在り方を世界から内側までを考えさせられるという部分共通点があると私的感覚ですが感じる所です。
さて、話を戻しつつ少し簡潔に
このダークツーリズムという思想は歴史的な息吹を未だ残す場所、それが荒廃し崩れ去っていたとしても、その形で自然は世界に人間の生活様式と共に息づいてるという領域なのです。
確かに、タブーな場所や風刺的に社会的常識から見ると眉をしかめるような場所であったりするのですが。そこに歴史があり生活様式と共に姿を変え荒廃という衣装を纏った現象学的還元された自然である。
それはただ自然である事の美とは違うものがあり、違う美しさがある。
何故ならば、土地も含め、様々な物質はただ衣装替えをしてるに過ぎず時間と共に生まれたままの姿に戻るだけであり、
そしてそれは循環しまた、循環するという意味で今尚その息吹は残っているからだ
荒廃と退廃という絶望感も含めて、不動性の諸行無常は退廃を繰り返し、
自然はただ傍観者に過ぎず付与するがどう世界を創るかには自由意思がある。
よって自然は世界に対して付与するが自然の脅威はただ自然が自然で在るという事だけであるので、その中で生きる事と自然は
作用反作用の法則のような場所である
かくて、脱線激しいが
ダークツーリズムというプロジェクトを上記から改めて読んで頂きたい存じ上げます。 内容は限定的に掘り下げておりますので、直接読む方が息吹を感じるのではないでしょうか?
arise r.o
では最後に
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
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