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執筆者の写真亮 及川

カント研究

更新日:2020年8月6日

随時更新していきますん

カント研究


フィロネンコ著 中村博雄 訳

p7

1 「超越論的図式」

2「ヘーゲルのカント批判」


カント理論形式


図式論(カテゴリー)と

アンチノミー


根本的契機(契機)

契機 (変化、発展を起こす要素原因)


「批判主義が実存的解釈学やヘーゲルの弁証法の中に飲み込まれてしまったものである。」


8 実践的、道徳的観点

(カントがルソーに反して許している進歩の思想の動的な要素を捉える事が問題だったのである。)


考察


図式(カテゴリー)は統合性を持つが、その場合において題化が生まれ理論構築において図式化した主題に対するアンチノミーという方法的批判が用いられ、(理性)(判断)においてカテゴリー分けによるアンチノミーは必然的に発生するとされる。


↑「調査」(recognouit)

カント9 序

「人間の進歩の問題を完全に統合的に扱っている唯一のテキストである」

A 「倫理学講義」においてカントとヘーゲルは対立せず補足性を見出した

B p9 カントとフィヒテにおける主権と合法性


「判断力批判」=形而上学


考察

A 倫理学においては、徳の講義でもあるので、理性、判断、批判(アンチノミー)は理性存在の倫理判断力に対するアンチノミーであるが、理性判断に対しての

理性の使い方並びに、選択の誤りに対しての、判断的方法論であり徳という部分つまり図式化は、アンチノミーとなるが主題においてこのアンチノミーはカテゴリー内に在るので、独断的懐疑論ではなく、主題に倫理を置くならば、理性存在者の理性判断の不徳に対する指摘批判へと転換するので、対立せず補足性を見出したとされる。


10 主観個体性 

重複と分析に帰結

(美学に辿り着く為には超越論的で反省的な目的論的哲学から始めなければならないと考える)


p11 「フィヒテによる批判」

B 「カントにおける目的論的判断アンチノミー」


フィヒテ「自我が存在するのは自我が自分を定立するのは自我が存在するからである、従って、自己定立の(働き)と存在はまさに一つである」


問題点「超越論的主観」を中心にしているが、どのような権利から今度は哲学的主観を中心としていると言えるのか?


イマニエル.カントとは?

カントは「論理的構築物を信頼し過ぎている」


考察

まず、自由意思とは何であるか?それは人の意思、認識の働きの乱雑さ、言い換えると不確定性であり超越論的構想力として認められ、自身批判する能力として開かれている。

批判は超越論的構想力の自由意思における判断力の決定権であり、

カテゴリー化はアポステリオリな判断に対してアプリオリな意思判断を批判構築する

よって構築された論理を思惟運動として物の運動と区別される。


「決議論」ausistry

p12 カントの分類に

倫理的契機

道徳及び法の契機

反省的判断の契機



I 超越論的図式論の読み


(契機)=変化、発展を起こす要素、原因またはきっかけ


p17「R ダヴァル(R daval)」


は次のように書くことが許されると考えた

「図式論の学説はカントにとって不可欠な本質であるか、あるいはカントの説は観念論の方向では処理され得ないかのいずれかである。」


考察

図式はその結果において、図式形象という構築において、観念論は身を潜めているに過ぎず、その意味において観念論は失われる。

ところが「図式化」

要するに超越論的図式において図式は観念論的に思惟された上で思考の表出的図式化された題化であるが故にその過程においては

観念論である。

ところで観念論は主客観念論であり超越論的契機であり、この考察の図式と図式化を分けて解釈している訳ですが、ここでパンクスのフィヒテの独我論解釈されている、自我同一性の理性構築により、問題点である観念論の消失を補正する事が可能であると解する事が、でき得ると考えます。

図式と図式化を分類する事は哲学的に少々統合性に欠けうる解釈でもあるので、

しかしフィヒテの自我同一性の自我の

「働く」という思考の動的同一性による統合的還元をお借りして考えるならば

図式と図式化は分類されかつ統合性を持ちその働きは自我同一性の性質の部分的使用という相補性により、超越論的図式論の妥当性の一部として解釈する事ができると考えます。


カント図式論への指摘


マルティンハイデガーの指摘


カントは超越論的演繹論に続いて、「純粋理性概念の図式論について」と題された部分について a (有限な純粋直感)としての存在論的認識の基礎の解明を企てている。

「このように図式論の章が体系の真ん中に、しかもその基礎確立の段階の次に位置するという場所を見ても、それだけで(純粋理性批判)これらのページが著書全体の核心となるべきであるという事を明らかにしているのである」

1 a 有限な純粋直感(悟性、アポステリオリをアプリオリとしてカテゴリー化する事による有限的な使用)

b 図式体系化

2= a+b = 理性使用


R.ダヴァル(R.Daval)の指摘


図式論の学説はカント哲学にとって不可欠な本質であるか、それとも、あるいはカントの説は観念論の方向では解釈されないかのいずれかである


Bルッセ(B.Rousset


「何がそこにおいて重要であるかは直ぐに見てとる事が出来る、即ちこの図式論の章の重要性は客観性の根本的関係(larelation fandamentale.dobjective)」

つまりカテゴリーと感性の同一とに一致している。従ってそれは批判的構成のカントの説の解釈の鍵なのである、またこの図式論の章に選り抜きの場所が与えられているということも、納得出来るこの章の

「分析論」の心臓部におかれ

「概念の分析論」と「原則の分析論」の間の蝶番となっている。


考察


まず、ハイデガーの指摘は悟性概念(経験的直観の理性使用)を図式論ここでは(図式と図式化と解する)この悟性概念はaにより「純粋理性批判を図式論の基礎とし、それとともに解明を企だてている」言い換えると

「直感悟性の図式論という方法論による理性使用の限定的使用による観念の図式体系化を意図している」


という意味での「ヘーゲル弁証法とカント弁証法の違いが現れる。」


ヘーゲル弁証法 簡略


正反合は時代の変化に弱い何故か?

正反=合となってしまう為に

合=正

合=反

合=合

となってしまうからである

※へと


戻りますが。

ヘーゲル弁証法は体系の構築が限定的であり、依って「点在性論」という論理において弁証法(正反合)の枠組みを定め構築する事により弁証法の正当性の妥当性を試みている。

※しかしカントの図式論は、悟性概念には(多様性)が含まれるが有限とする。

そして図式論において、限定的多様性の理性使用は自由意思を持つが限定的である。

(人は理性の限界を認めない=自由意思)

余談


止揚 「アウフヘーベン」 こりゃ点在性でミスったな。

これ弁証法としての思考法としての解釈だと矛盾が生まれてしまうけども

コペンハーゲン解釈とエヴェレット解釈における点在的現象学におけるδ関数解釈の自由意思の限定的多様性の点在的現象学による、止揚点在的体系ならば、弁証法の応用としての点在的構成と解せるけども。

超越論的図式論は既にここだと思われる。


p18 末尾

方法論的分析論に帰結(図式論において)


p19


ハイデガーの指摘

「自らの問いを徹底的に追求することによって、形而上学の「可能性」

をその深淵の前においた、彼は未知のものを認め、後退する事を余儀なくされた

それはただ単に超越論的構想力が彼をたじろかせたためでなく、その間にあるがままの純粋理性の不思議な魅力にますます鋭敏になった為である。」


「純粋理性が超越論的構想力に変わるならば「純粋理性批判」の批判はそれ自身によって主題を奪われるのではないか。この基礎を築く道は底無しの深淵に通じてはいないか。」


深淵=深いふち

悟性=人間の認識能力の一つ論理的な思考力特に理性と区別して、経験界に関する知性



考察


上記指摘から(推論)してみると、まずカント哲学(超越論的図式論)の深淵については※「純粋理性批判」の基礎を築く段階において

A(形而上学の可能性の深淵)=主観的超越論の本質の本来的覆われの存在は既にアカデミーでは前段階では、論理的な悟性として認識していたと思われる。

言い換えるならば※は覆われを結果擁護する事になるがだがそこに後退無いと思われる。

後退(振り返る)

後退り(観察) 形而上学の深淵への、、


何故ならばこの二つの論は覆われを基礎予想していたとされると思われるからであり、

ハイデガーの「理性を救う為に、純粋悟性に味方して、純粋構想力に対抗することになってしまっている」


であるが、ところがこれはまさにその意味のままであり、先に述べた通りAにおいて

後退せずに後退するには?と考えてみた場合※の二つの論において、弁証法の多用的図式論とする事により理性と悟性の対抗を予想し、批判により論を体系化したと思われる。


つまり図式と図式化 これを言い換えるとAを含んだ論の構築「超越論的図式論」の構築へと帰結し、図式という方法で弁証法の枠組みを多様化する事により、理性と悟性を対立させながらも合も可能とする方法論であると思われ、故に図式はその形式から観念論は失われたかに見えるが、上記の前提において、

「覆われを起点とした観念論的構築され得る「超越論的図式論」」はハイデガーの指摘をクリアしていると

推論することが出来ると解します。


21 NKスミス「産出的構想力の分析は「図式論」に関する節の中で展開されている。一言で言えば「批判」」

を通して図式論のところまで提出されてきた全ての教えがこの一箇所に集中されているのであり一方一切のその先の議論の展開はその後の問題である。



「アプリオリな認識と諸カテゴリーの可能性に関する予備知識的説明」


検証(cotre-apreuve)実際に調べて証拠立てる事仮説を実証する事。


p21

超越的演繹

において、批判的哲学によって境界を定め正解な地平線に認識基礎を確立しようとしている。


「アプリオリな確認として諸カテゴリの可能に関する予備知識的説明」が考慮に入れられるべきである。

カントヒュームが習慣これ自体連合に依存している。ーにしか基礎を置く事が出来なかった諸現象の連合の超越論的基礎を明らかにすることを意図している。


考察


さて、まずカント哲学の「アプリオリ」は先天的超越論として位置付けられるが

この(境界を定める)事ここで、カント批判の

【論理的構築物】に頼り過ぎている

【図式は観念論を失う】

Aは形而上学的可能性という深淵に対して(境界を定めて水平化する)という問題へと発展する。本来アプリオリは超越論的悟性観念であり、理性、判断の修正であり、この境界は、無限的な観念論の形而上学的超越論(イデア)に対する構築物である。

(余談これカントは深淵に引き下がるどころかぶっ込んでるよね、私的推論だとアプリオリはイデアの位置を界としながら、我のうちに引き入れている。ここでもフィヒテの自我の働きとカントのアプリオリの境界線の図式化の働きが再考され得るが、数学で言う極限値(lim(x→∞)またはlim(x→0))のようなものである)がハイデガーの指摘考察にもあるように、

形而上学の前に論を置く事による、超越悟性による理性可能性の示唆であり、


それ故に境界を定めるとは、境界を定められない言い換えるならば、自由意思における不確定性による理性への働きかけとイデアという形而上学的超越論という超越論という地盤においての覆われと、深淵に対してアポステリオリ判断におけるアプリオリの超越論的悟性に対してフィヒテの自我同一性解釈による境界の不確定性の内に超越論的図式論を置く事により、前述にあるように

図式における実践哲学への前進

図式化におけるアプリオリの悟性蓋然性によるアポステリオリの蓋然的可能性

ここで超越論的形而上学の接線が引かれ

理性的認識、判断力への批判哲学の地盤が超越論的に置かれたと解します。


p22

純粋悟性概念

1 単に経験によるものか?

2 超越論かどうか?


1 これらの概念が一般に事物可能性の諸条件として、(我々の感性に拘束される事なく、)それ自体で対象に及ぶかどうか?


2 可能的経験の諸条件として専ら、諸現象にアプリオリに関係するかどうか?


カテゴリーは学の構成に役立つ事が可能になる ハイデガー(理性理論を脅かす)



経験論の哲学的基礎が崩壊した、という権利が生ずる。


カテゴリの適用


考察


A(超越的演繹論において図式論は、帰納法的要素を持つと解釈します。それは従来の帰納法ではなく、演繹の内に、弁証法を図式として起き特殊的な事例に対して超越論的悟性を持って理性と区別し論理的思考を行う)


従って前述で述べた通り図式はハイデガーが「理性理論を脅かす」としていますが

図式化には観念論は有し

理性が使用され、超越的図式論において悟性による区別を意図し、図式という器を

「カテゴリーの適用」

という方法論でもって、純粋理性として置く事により図式論を論理学としての構成に役立つ事が可能になると考えた。

よって「純粋理性批判」「判断力批判」に代表される批判哲学(あえて哲学とつけて)

の体系化にもあるように。

上記をもって、カントは経験論の哲学的基礎の崩壊A という権利が生じる。


余談ですがp22

「ただ一つの契機だけが堅固さを保ち続けているように思われる。それは真に考えようとする者に対する誘惑である」


ときにこの図式論にハイデガーは何と述べたか?「この基礎をきずく道は底無しの深淵に通じていないか?」


まさにその通りでありカント哲学の超越的図式論及び悟性観念は形而上学の「可能性」を深淵の前においている。

その器を適用する者は図式論の中で理性的認識と悟性蓋然性から自らを困惑へと陥れてしまう事になると解する事が出来ます。


「三角形の命題における、超越論的演繹の観念の欠如性について」


p21 産出的構想力について

「産出的構想力において、曲面は切り捨てられる産出的図式論においては曲面は還元学的構想力を生産へと、導く」

さて、曲面という言葉は付け加えたのですがこれは後ほどご説明させて頂きます。


ジョン・ロック「三角形の命題への不安」


についバークリーの思想体系について


バークリー思想の三つの段階

第一段階 「存在延長などは、抽象的なものであり、換言すればこれは観念論ではない。」


第二段階「一般的で抽象的観念というものは論理的奇形である事に注意をむけさせる事に注意を向けさせた」


第三段階「バークリーは心理学的不可能性を見出した」

バークリーは固有観念に目をやり(三角形の一般観念)様々な三角形において、不等辺の三角形でも無いが同時に全部であり、しかしどれでもないような三角形の観念)←この描写と一致する観念に行き着けるか確かめる。」


カントによる三角形例についての考察


「三角形の形象というのは、概念の一般性この概念の一般性によって概念は、すべての三角形に(適用)されるものであるからである。」


※この適用の問題は可能性(la compre'nsiblite)の問題であり、この解決が欠如すれば超越論的演繹論の中で得られた成果はひどく重い負債として苦しみの種となるであろう。


「三角形に一般的表象があるとして、三角形を概念的に三角形として再任できるのであろうか。」


考察

ここで問題とされている命題として三角形の何故三角形はその形状により個別に捉える事は出来ないが、三角は分かるのか?

とこれは、有名な命題だったっけな?これに対しての考察と私的感想として。


さて、今平行して明解量子力学入門

吉田伸夫

という全く明確出来ない本を読み始めたのですが早速面白い理論がございまして

リーマン幾何学という理論ですが、これを

リーマン幾何学的思考法

と題うって上記を考察ふまえてまず前述させて頂きますと。



リーマン幾何学 x=f(x'.y')、 y=g(x'.y')、 (曲面に先端や縁がなく、折り曲げたり破ったりせずに方眼紙を貼り付けられるなら)fやgのような変数変換の可能な関数は微分可能となる この、ケースに限れば幾何学的な議論を行う際に、微分を利用する事が出来る 微分幾何学。 上記 三次元空間を頭の中で描こうとすると空っぽの入れ物をイメージ出来る それを二次元の空間で説明する事にしよう 二次元の空間(空間って言っちゃてるね) 二次元面の三次元ユークリッド空間の中に曲がった面状空間(空間って~) が(存在)する状況を思い描く事が出来る。 二次元の面上で近接(した)2点を置いた場合の2点間の距離の間隔を二次元解釈の長さを表す量(長さ要素)としてdlとする。 以下略 (スカラー)



上記から思考法とカント研究へ イメージの三次元解釈と二次元解釈において、思考は物理学では無く観念論的に三次元を二次元解釈として図式化をしている事になる。つまりこの工程を超越的図式論に当てはまるならば、思考法の曲面的解釈、先端や縁(図式)の無い思考回路の思惟的な相対性 主客観念と、自我同一性についての能動的図式化と体系化の流れが掴め、 描像としての思考の図式論的解釈と解します。


バークリー哲学的には抽象的観念で論理的奇形まさにそのものですがこれをご説明したいと思います。


直角三角形に限定した場合において、直角三角形自体に存ずる多様性から考察するカント「三角形を概念的に三角形として再認識出来るであろうか?」


についてルーズリーフに点線があったので

直角三角形の展開をしてみました。


図はないので言葉で説明致します。


まず

1 直角三角形 辺が3つ 三つの点の接合の重なり合わせ


2その直角三角形を辺に展開し、そして辺にある点のみを抽出 . . . .

と4つの点


3 これは簡単です 4点を結ぶと一本の辺です。


4サイン波コサイン波この変形は少し自信がござーませんとりあえず3の半径からコンパスで両端を繋いで曲線変形してみました

自信は全く無いですが、、理数は、、


5 これは簡単ですね、短形波です一本の辺を縦にして横に4点を繋ぐ


とりあえず簡単な直角三角形の変形ですが、抽象的奇形かなぁ?と思うのですね。確かに三角形を組み換えてしまっているのですが

「三角形の一部の範囲に制限されるものである」

「概念的に三角形を再認識出来るか?」


への考察として1〜5は直角三角形という超越図式論であり、これらは二律背反的では無くかつ


三角形を展開し変形しまた三角形にする事は弁証法的かつ超越論的演繹法であると思います。


上記で量子論を参照したのはこの思惟、思考という観念論においてそれ自体が超越的であり、何故変形図を展開したかと言いますと、三角形を展開しかつ三角形にするという

1〜5 までは 三角形を 展開しているのであり、三角形が変形した形を見ていただきたくなりました。そしてそれが三角形に戻る事

つまり、個別に三角形を捉えられなくても、三角形の概念は三角形の展開図が存ずるという意味において、三角形の概念を三角形の展開と収束という過程から、

概念の再認識は可能でございます。

抽象的奇形と言われてしまうとあれですが


だが、上記から様々な形は幾何学展開が可能であり、よって変形が真という意味ではなく、形象が与える経験から概念の一般性と形象概念は認識されかつ再認識され得ると

よって三角形を捉える可能的経験とアプリオリは常に開かれており、よって三角形を理解する事が出来、再認識でき得るという解釈を致します。





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